京へ行こう、京都を歩こう。 古都 京都のまちへ、 吉とでるか、京へ出るか

FrontPage

JR京都駅から七条通りへ

JR京都駅から烏丸通りを北へ進む。

京都タワーを左に見ながら通り過ぎると、
左手前に東本願寺が見えてくる。

その手前の東西に走るのが七条通りである。

七条通りを東へ鴨川を渡り、
京阪電車の七条駅を超えて真っ直ぐ行くと、急に上り坂になる。

左に京都国立博物館
右に通し矢と1千1体の観音像で有名な三十三間堂がある。

国立博物館から北へ大和大路通りを上がると、
家康嫌いで秀吉贔屓(ひいき)の京都人が明治に入って再建した
豊国神社(とよくにじんじゃ)がある。

願を書いた「しゃもじ」が所狭しと掛けてある。

豊国神社では、毎月8の付く日(8日、18日、28日)に
「豊国(ほうこく)さんのおもしろ市」が行われる。

三十三間堂に戻る。

その東には赤十字血液センターと京都パークホテルが並ぶ。
そして、突き当りは、真言宗智山派の総本山、智積院である。

智積院まえの七条東大路通T路から
智積院の左の脇を東山に向かって上がっていく道が、
京都女子大学の「女坂」である。

智積院まえの南北に走る道路は東大路通という。
東大路通は正式な名称だが、京都のひとはこの道路を東山通だと思っている。

妙法院門跡を右手に見ながら東大路通を北へ上ると五条通へでる。
五条坂の手前右手が大谷本廟である。

清水の坂

五条坂を上がって行って、産寧坂とぶち当たるところから
清水寺に通じる参道は清水坂と名を変える。

途中、左手に46段の急勾配の下り坂が現れるが、これが産寧坂。
そして、途中で八坂通と分かれる二年坂をそのまま進んでいくと、
日本画家・竹内栖鳳の旧邸、

そして北政所が秀吉の菩提を弔うために建てた高台寺の参道に出る。

東山安井

東大路通りを清水坂の上り口を右に眺め、
かつての五条である松原通にさしかかる。

この松原通りは、地味で細い路なのだが、
東は、清水寺まで通じ、西は、西大路ノ更に西、佐井西通りまで
全長5.2キロ延々と続く。あの鳥辺野(とりべの)焼き場の入り口でもある。

松原通りを左に曲がると、すぐに六道珍皇寺(りくどうちんのうじ)だ。
もう少し西へ行くと、空也上人の開基、平家一門の邸宅、
さらには鎌倉幕府の六波羅探題(ろくはらたんだい)で有名な
六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)がある。

そこは通りすぎると安井神社(やすいじんじゃ)がある。
その真ん中に縁切り祈願の社がある。

ここには願掛けの絵馬が多く掛けられている。
桂米朝一門、今は亡き鬼才・桂枝雀の絵馬も残されている。

高台寺前から八坂神社

東大路通りをはさんで安井神社の反対側にある鳥居をくぐり、
ゆるやかな坂を上がっていくと、
清水から下りてきたあの産寧坂から続く二年坂の終点にぶつかる。

狛犬を両サイドに従えた鳥居をくぐって、
そのまま上がって行くと突き当たり左が京都霊山(りょうぜん)護国神社で
幕末の英雄、坂本龍馬、中岡慎太郎や木戸孝允等の墓がある。

その護国神社の入り口と道を挟んで
幕末をテーマにした霊山(りょうぜん)歴史館がある。

東大路通沿いの一つ目の鳥居と
狛犬が両側にある二つ目の鳥居の中程から

京都霊山護国神社に向かう道と分かれて左に並行して走る坂を
上がり続けると高台寺に突き当たる。

ここを高台寺に向かわないで左に曲がると、
八坂神社につながる北行きの路となる。

左には甘酒・抹茶の「文の助茶屋」、右には、高台寺の塔頭。
長く続く土塀、誰かが悪戯につけた傷が悲しい。
この塔頭の一つは、隠れた宿でもある。

幕末、新選組副長・土方歳三と同格の
参謀であった伊東甲子太郎が組を脱退し、
同士15人と立て籠もった寺院だ。

この寺院の前の道をねねの道という。
ねねの道を道なりに行くと円山公園にたどり着く。

ここは、寺院の手前から西に卍のように折れ曲がる石塀小路に出る。
石垣が連なる邸宅がそのまま、観光地を避ける
京好みの客の「隠れ家」になっているという一角である。

料亭、料理旅館、お茶屋やバーもある。
大正の初期に作られたというこの一角、
住宅地に見えるのに、生活の匂いは一切しない。

暖簾がかかっているのに料理店という趣がない。
雨に濡れた石畳はやけに風情がある。

石塀小路を出たところが下河原通りである。

なだらかな坂を北に進むと、
左手には会席料理の老舗や
料亭、魚料理、京銘菓のお店が並び、

右手にはまるで住宅のように
ひっそりと表札を上げるお茶屋さんが続き
路はやがて八坂神社の南入り口に行き着く。

この南門が八坂神社の正門で、
四条通が東大路通リに突き当たったところにある
朱塗りの楼門は実は裏門である。

門を入ってすぐ右側にあるのが「中村楼」、
今も格式のある宴会や結婚披露宴に使われる。

その「中村楼」前から社の中を進むと、八坂神社の本殿にでる。
横には能舞台がある。この境内は、祭りのたびに露店がズラーッと並ぶ。
この社を抜けたら円山公園。

祇園界隈

八坂神社から東大路通りを横切ると、そこが祇園界隈である。
祇園は八坂神社の門前町として発展してきた。

「ぎおんさん」として知られる、祇園感神院は、
もとはと言えば天台宗比叡山延暦寺の末寺で神仏分離後、
今のように八坂神社と呼ばれるようになった。

大阪の千日前や東京の浅草と同じように、
京都では、誓願寺まえに新京極、北野天満宮まえには上七軒、
東、西両本願寺と本圀寺をはさんで、
西と東には島原に五条楽園と、代表的な歓楽街が栄えてきた。

祇園が最も賑わった頃、文化、文政の時代は、
お茶屋が700軒余り、舞妓の数は3,000人を超えたとも伝えられている。

祇園

四条通りにでて、「一力」の角から花見小路通りを南に下がる。

その昔は、建仁寺の境内だったところで、
明治7年に祇園甲部お茶屋組合が
7万坪ほどを譲り受けて作られたのがこの祇園町南側である。

東に行けば、祇園甲部歌舞練場裏手の「女紅場」に出る。
「女紅場」というのは、舞妓さんの学校・八坂女紅場学園を指す。

花見小路通りを更に下がると、
左手に祇園甲部歌舞練場、JRA場外馬券売り場、
右手に建仁寺、突き当りの建仁寺の入り口の前を左に行く。

二つ目の右手角に建っている石の鳥居をくぐると、
安井金毘羅宮の北口に出る。

このあたりはラブホテルが密集している。

逆に花見小路通りを四条通りから北へ向かうと、
新橋通りに差しかかる。

新橋通りを左に折れて、
新橋を渡ると正面に辰巳稲荷(辰巳大明神)が祀られている。

辰巳稲荷(辰巳大明神)の左手に巽橋(たつみばし)。

この橋の下は、アヒルと鯉の行き来する白川が流れる。
アオサギもよく見かける。

比叡山から流れてきた水は、銀閣寺、南禅寺、知恩院わきを経て、
ここを最後に鴨川に流れ落ちる。

川沿いにはお茶屋さんの奥座敷のすだれが続き、
川向かいは廃線になった市電の敷石を敷き詰めた白川南通りだ。
塀で囲まれた料亭が軒を並べる。

辰巳稲荷(辰巳大明神)をはさんで、巽橋の反対側に
お茶屋を改造したネクサスのビルがある

新門前をぬけて古川町へ

表は駒寄せに千本格子(こうし)、二階はすだれの家並みが続く。
新橋通りを抜けると、縄手通りに出る。

古美術商や骨董店、アンティークショップの店が軒を連ねる。

縄手通りを上がり「力餅」を右手(東)に折れ、
新門前(しんもんぜん)通りを進み、

新門前橋のところで白川を渡ってさらに
東に進むと、通商ダルマストリートで、
美術商をいくつか覗いているうちに、東大路通りにでる。

東大路通りを上がる。知恩院前のバス停を超えて
左手に構えるのが「一澤信三郎帆布」。

テント屋さんから始まり、そのテント布を使ってバッグを創りだした
有名なカバン屋さんである「一澤帆布」だった店である。
迂余曲折 を経て現在の店となった。

ここをさらに上がって、左手角に古道具で建てた家のような古道具屋があり、
この古川町の南端には知恩院前の疎水にかかる行者橋がある。

東大路通りをさらに上がって行くと三条通りと交差する。
東海道五十三次の終点である。

京都への入り口となる場所の名は「口」で表される。
東海道を上がってきて、三条街道からの京への入り口を「粟田口」という。

「口」は関、むかし関銭を取った場所だ。

岡崎

東大路通三条を一筋上がると、仁王門通りにさしかかる。
左手に目をやれば、路ぞいに東西方向に寺院が並ぶ。
右手に向かうと、急に路が広くなってすぐ琵琶湖疏水縁に出る。

南側には中国古代からの美術品を収蔵する大正年間に建てられた
有鄰館(ゆうりんかん)や、能の中心、観世会館があり、

北側には国立京都近代美術館、道をはさんで京都市美術館、
さらにその先に京都動物園が疎水沿いに並び、少し歪曲して、
南禅寺や蹴上のインクラインへと続く。

疎水沿いの道路を隔てて、山縣有朋の別荘跡である無鄰菴(むりんあん)もある。

平安神宮の鮮やかな朱色の大鳥居に向かって、同じ朱色の慶流橋を渡る。
昭和4年に建てられた鳥居をくぐると左手に京都府立図書館、
京都市勧業館「みやこめっせ」がならぶ。

「みやこめっせ」地下一階には、「京都伝統産業ふれあい館」があり、
職人さんが技を実演し、毎週日曜日には舞妓さんが舞いを披露する。

そして、道をへだてて日本初のコンクリート打ち放しの建造物である京都会館、
右手には岡崎グラウンドが広がり、どんつきにあるのがご存知、平安神宮である。

平安遷都を行なった天皇であった
第50代桓武天皇(かんむてんのう)と

平安京で過ごした最後の天皇である幕末の
第121代孝明天皇(こうめいてんのう)が祀(まつ)られている。

平安神宮は平安時代に建てられたわけではない。

1895年(明治28年)4月1日に
平安遷都1100年を記念して建造されたモダンなモニュメントなのである。

東一条から百萬遍へ

東大路通りへ出て、北へ上る。
丸太町通り、その角にある鬱蒼とした熊野神社と
京銘菓・八つ橋のお店を超えて、

京都大学医学部附属病院を左手に見ながら、
やがて京大の正門と吉田神社の参道のある東一条、

京大の北門と毎年10月に境内で大古本市が行なわれる
知恩寺のある百萬遍に出る。

百萬遍を過ぎて、やがて叡山電鉄と交差する。
この電車、京福電鉄の経営だが、出町柳を出て、東大路通を渡り、
一乗寺、修学院、岩倉に向かい、
やがて北山の奥、貴船や鞍馬まで通じている。

そして、東大路通りを北へ行き着いたところが、高野である。

下鴨

左に曲がって北大路通りを西へと向かう。
西のどんつきが西大路の「左大文字」である。
ふもとには金閣寺がある。

東は東山のふもとの白川通りにつながる大通りだ。
出町からY字形に分かれた高野川を渡り、
下鴨本通りを横切って次にもう一方の賀茂川を渡る。

鴨川は出町で高野川と分かれたあと、
そこから北は賀茂川と書かれる。

北山通り

洛北高校前を、南に下がると下鴨神社がある。
都中屈指の鬱蒼(うっそう)とした森、「糺の森(ただしのもり)」にくるまれた神社だ。
葵祭り(あおいまつり)はここを出て、上賀茂神社(かみがもじんじゃ)に向かう。

北に上がると、すぐ右手に洛北高校、
しばらくしてノートルダム女学院に出る。
小学生から大学生まで独特の茶色の制服で有名な学園だ。

その正面の前を北大路と並行に走るのが北山通りである。

北山通りの南側には、京都コンサートホールや、京都府立総合資料館、
そして大正13年に開園した全国初の公立植物園、
京都府立植物園が広大な敷地を占める。

この京都府立総合資料館の交差点を北に曲がって北山の方へ進むと、
深泥池(みどろがいけ)に出る。天然のジュンサイが採れる池だ。

疋田(ひきた)正博氏によると
「深泥池(みどろがいけ)は、ウルム氷期の植物であるミズガシワや、
北海道のホロムイ湿原で見つかったホロムイソウなど珍しい水生植物が数多く生えている。
すなわち氷河期の生き残りというわけである」と説明している。

深泥池(みどろがいけ)の脇を通り、坂道を上がると岩倉(いわくら)に出る。
脇には、比叡山(ひえいざん)を借景とした庭で有名な円通寺(えんつうじ)がある。

加茂街道からの眺め

府立植物園がある下鴨本通りに戻る。
北東から南西に向かって疎水が流れ、古風な洋館が似合う道筋である。

賀茂川を渡る。
渡ったところ、賀茂川沿いに出町から上賀茂まで通じているのが加茂街道だ。
上賀茂神社への長い長い参道である。

加茂街道を北大路から少し上がったところ、
そこが八月十六日の「送り火」の時には絶好の見場所となる。
南東に「大文字」、北東に「妙法」、北に「船」、西に「左大文字」が見える。

加茂街道をさらに上がって北山橋を過ぎたところから
賀茂川の東には今も畑がところどころに広がる。

さらに上賀茂橋を渡ると今度は西側に畑が広がり、
京野菜が栽培されている。

賀茂川を渡るとすぐに北大路烏丸の交差点に出る。
北大路に北門をのぞかせているのが、大谷大学である。
この大谷大学は東本願寺の系統である。
 
烏丸通りをずーと下がっていくと同志社大学がある。
NHK大河ドラマ「八重の桜」の八重の夫・新島襄が創立した大学だ。

堀川を過ぎて大宮に差しかかると大徳寺前である。
大徳寺は豊臣秀吉が織田信長の後継者であることを世間に知らしめるために、
途方もない規模で葬儀を催した寺として知られる。

この寺院を北東に抜けると今宮神社にでる。
今宮神社前から西に急な坂を上がって行くと鷹峰(たかがみね)である。

北大路に突き当たり、金閣寺の少し手前で、千本通にさしかかる。

千本通りは朱雀大路(すざくおうじ)

千本北大路を下がると、千本通が九条の羅城門跡にまで通じ、
さらにそこからは鳥羽街道となって、淀の宮前橋のたもとまで続く。
全長およそ17キロの路である。

何故これほど長い路が通っているかというと、
実は、これがかっての平安京の中軸をなす朱雀大路とその延長だったからである。

京都に平安京が造られたのは、794年(延暦十三年)のことである。

中国の都城制をまねてあらたな首都建設がなされたのだが、
この時、京を南北に貫通するなんと幅85メートル級の朱雀大路を軸に、
東西に二つの区域が制定された。

左京と右京である。

唐風の呼び名で、左京は「洛陽城」、右京は「長安城」とも称されたのだが、
平安時代の後期ともなると、すでに右京の衰退は目に余るものとなっていた。

左京と比べると湿潤な低地で、沼や泥地がそこかしこにあったからである。
建都のときに設置された大路もしだいに崩れ、元の農村に戻っていった。

京都が洛中・洛外というふうに「洛」で表されるのは、
都の中心城が「洛陽城」になったからである。

このあと、平安京は左京を中心に、一条を越えて北に延び、
鴨川を越えて東山のふもとまで東に延び、細長い形に再整備される。

やがて応仁・文明の大乱で都はずたずたに破壊され、
さらに豊臣秀吉による都市大改造によって、都は「御土居」で囲まれ、
内部の道路にも大がかりな整備が加えられる。

そして、この間、京都の大きな区分は、
朱雀大路を軸とする左京・右京の東西の区分から、
二条大路を分岐点とする上京・下京の南北の区分へと変化していった。

(以上、森谷尅久監修『京都の大路小路』より)

千本通りは、かつては都のど真ん中を縦に走る「朱雀大路」だったのである。

釘抜地蔵尊(くぎぬきじぞうそん)

京都はなだらかな坂の街である。
北大路は南に位置する東寺の五重塔より高いところにある。
北行きを「上がる」といい、南行きを「下がる」というのもうなずける。

北大路でも一番盛り上がったところ、
千本北大路から坂を下りて来ると上立売で、そこに釘抜地蔵尊がある。

このお寺の正式名は、石像寺(浄土宗)という。
昔から苦しみを抜いてくれるというので「苦抜地蔵」と呼ばれてきた。

痛み、苦しみ、怨みを抜き取ってくれるというので、
釘抜きの絵馬が境内に所狭しと掛けられている。

「苦抜き」の謂われは、田中泰彦氏が「京のご利益さん」で説明している。

「寺法によりますと室町末期、油小路上長者町に国屋道林という人があり、
長い間、両手の痛みに悩んでいました。

道林はお地蔵さんに手の痛みが治るようにお祈りをしました。

満願の夜、夢にお地蔵さんがあらわれ、

『お前の手の痛みは前世に人を怨み、
人形の両手に八寸釘を打ち込んで呪ったタタリである。

しかし御前がわたしにすがるので、
その釘を抜き取って苦しみから救ってやろう。これを見なさい。』
と血のついた八寸釘を見せました。

道林は気がつくと両手の痛みはすっかり治っています。

夜の明けるのを待って、さっそくお礼に参り、お厨子を開いてもらいますと
お地蔵さんの手は血に染まり八寸釘を持っていました。
それからずっと道林は百カ日のお礼参りをつづけ地蔵堂を建立しました。

以来、人呼んで『釘抜き地蔵』というようになりました。」

阿亀(おかめ)

千本通りを西に渡って少し行くと、「仏像の宝庫」とも言われる千本釈迦堂にでる。
境内の隅っこには「おかめ塚」がある。

本堂を建てた棟梁が寸法をまちがえ、どうしたものか思い悩んでいる時、
妻の阿亀が妙案を思いつき、本堂はめでたく完成する。

だが、女房の知恵入れで無事、建ったことが世間に知れては
夫の名がすたれると思い、阿亀は自害する。

夫を立てて自ら命をたった、阿亀を祀ったのがこの「おかめ塚」である。

家庭円満・普請成就・多福招来の願がドッサリと掛けられている。
最近は、「ボケ封じ」の礼所にもなっている。

上七軒界隈(かみしちけんかいわい)

さらに西に向かうと、
菅原道真を祀った北野天満宮に行き着く。

学問の神様といわれ、毎年、初もうでの時は、
これから始まる受験の
合格祈願の絵馬がどっさり掛けられる。

毎月25日には骨董市でにぎわう。

天満宮の東門のところで踵(きびす)を返し、
斜めに行くと上七軒(かみしちけん)である。

ここは、京の北西の祇園みたいなところで、
置屋さんがずらりと並ぶ。

技術の街、西陣千本通りまで戻ると、
今度は五辻を東に向かう。

この辺り一帯は西陣の織り屋さんが密集する。

京都は観光の街ではない。

京都の観光による収入は
総収入の1割を占めるに過ぎず、
実は、典型的な内陸型の工業都市である。

京都にはどんな企業があるのか?

京セラ、オムロン、村田製作所、堀場製作所、
島津製作所、そして任天堂にワコールなど、
これらは全て京都を代表する企業である。

これら現代京都を代表する企業には、
3つの共通点がある。

1つはヴェンチャー企業であることである。

2つ目は、伝統工業を転移する形で、
誰も予測しなかったような製品を
編み出したことである。

余談だが、大阪の名物、たこ焼きも
技術転移から生まれたと言われている。

明石で漁業用のセルロイドの浮き球を作る鉄板の中に
卵を流し込んで焼いたとの説である。
 
ある技術が全く異なる用途に使われることで、
思いがけない効果を発揮するのである。

3つ目は、どれも精密工業であるということである。

現代の精密工業どこから来たのかというと、
言うまでもなく職人の技術からだ。

扇子職人の、京菓子職人の、桶屋の、仏壇屋の、
宮大工の、仏像修復の、湯葉作りのそれである。

京都は実は、
その昔より典型的な内陸型の工業都市で、

機織り(ハタオリ)や刺繍、染や洗い張りなど、
とりわけ糸関連の職人たちの
精密技術が集積しているのが西陣であったのだ。

西新京極

千本通りをさらに下がって、中立売(なかだちうり)あたりまで来る。

この北東の一角も、
かつて新京極にあやかって、「西新京極」
と呼ばれ、ずいぶん賑わっていた。

千本中立売を西に行き、
南に折れたところが、五番町界隈である。

金のない職人や学者、
それにふだん禁欲を強いられている若僧、
それらが通う街だった。

うらぶれた風情、年増芸者の厚化粧、それにオカマなど
アブノーマル・カルチャーを愛する人々が集まってくるのが、五番町だった。

その頃のようすをうかがうには、
水上勉の小説「五番町夕霧楼」をお読みいただきたい。

少し下がると、千本丸太町である。
丸太町を超えると、次に二条駅前に出る。

いにしえのターミナル

市電は千本通を羅城門までまっすぐに走る計画だった。

だが、三条の南にある材木の同業者町の強い反対にあって、
三条のところで斜めに曲がり(後院通)、
京都の西のターミナル、阪急・四条大宮駅に向かうことになった。

「三都物語」は、京都ではここ「大宮」から始まる。

神戸までつながる阪急電鉄は、
数十年まえまでは「大宮」が終着駅だったのだ。

「大宮」は、現在も太秦・嵐山方面に向かう、
嵐電(京福電鉄)の始発駅があるところである。

天使突抜(てんしつきぬけ)

四条通から大宮通を下がってすぐにあるのが大宮松原である。

松原通を三筋東へ行くと、堀川通に出る。

堀川松原に醒泉小学校がある。
この小学校の裏に「天使突抜」という奇妙な名前の街があった。

この「天使突抜」の東は西洞院通りである。

千本通の角を左折し、七条通りを東に進み、京都駅を目指す。

JR京都駅にもどる

千本通を七条通りで左に曲がると、東本願寺が見えてくる。
七条通りは、南側は仏壇・仏具の店が並ぶ。

路の北側には金物屋や帽子屋、靴屋、洋傘屋、肉屋、うどん屋、
お好み焼き屋などが並び、和ろうそくの専門店もある。

一応、七条商店街と称しているが、
どこから始まってどこまで続くのか定かではない。

この路を東に進んで、建築家・原広司が設計した京都駅にもどる。

この界隈には、京都観光をするための安価な旅館、
というより旅籠(はたご)が多い。

東本願寺にお参りに来る客、
ぜいたくな海外旅行とは無縁な外国人のための宿が多い。

京都駅には、なにか無意味と思える空間があちこちに開いている。

二階の南側には東西に数百メートルの直線の道がある。
烏丸通りの駅南北をつなぐガランドウの空間があり、空中散歩道もある。

伊勢丹は売り場を削って、その削った分を野外階段に使い、
その横を一気に屋上まで駆け上がるエスカレーターにしている。

そのおかげで、1階の改札口あたりまで陽の光が差し込む。
ここで野外コンサートが行なわれたりもする。

広くなる京都四条通りの歩道!

京都四条通りの歩道が広くなるようです。
現在の2車線から1車線にして、歩道を広くする
四条通りの歩道拡幅事業が今秋から行われることがわかりました。

四条通りの歩道d

産経新聞によると、

「片道2車線の四条通り
(烏丸通りから川端通りの間、1,1キロ)
の車道を片側1車線とし、
現行3.5メートルの歩道の幅を
4.2~6.5メートルに拡幅する。
11月の着工、来秋の完成を目指す」

というものです。

「計画では、計16か所あるバス停を、
四条高倉と四条河原町の東・西行き計4か所に集約し、
歩道から道路がわにせり出した乗降スペースを設け、
後続車両は基本的にバスを追い越せない構造にする」

というものです。

日曜祭日になると四条通りの歩道は人混みで
なかなか前に進みませんでしたが、歩道が広くなれば、

ゆったり歩きたい人たちはゆったりと、
急ぐ人たちはそれなりに歩くということができそうです。

a:1860 t:1 y:1

powered by Quick Homepage Maker 4.91
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional