< 伝承 仏教神話 >

< 伝承 仏教神話 U〜]Z >
< 伝承 仏教神話 ][ 〜 >


「竹中彰元師の復権・顕彰に関する宗派声明」


本年は、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を発端とした
日中戦争が始まって70年にあたります。
当時、上海から南京へと戦線が拡大し
日本国中が戦勝報道にわき上がる最中
「戦争は最大の罪悪である」
と戦争の本質を見抜き
身をもって戦争に反対した僧侶がおられました。

岐阜県不破郡垂井町岩手の
真宗大谷派明泉寺住職(当時)竹中彰元師は
1937年9月15日
出征する軍人見送りのため垂井駅に向かう途中
「戦争は悲惨な事だ、一体戦争は罪悪である」。
また、同年10月10日、組内寺院の年忌法要の席で
「徒に彼我の生命を奪い莫大な予算を費い
人馬の命を奪うことは大乗的な立場から見ても宜しくない。
自分は侵略のように考える」
と発言されました。

この竹中師の発言は
宗派(真宗大谷派)をあげて戦争に協力してきた中にありながら一人の念仏者として
宗祖親鸞聖人の教えに立ってなされたものでした。
しかしながら、これらの言動により、同年10月26日に逮捕
陸軍刑法第99条の「造言飛語罪」にあたるとされ
1938年4月27日、禁固4ヶ月執行猶予3年の有罪判決を受けられました。
宗派は、国家の処分に準じて、同年11月18日
竹中師を軽停班3年及び布教資格剥奪に処したのでありました。

明泉寺のご門徒は、国家の処分に対して用意した「嘆願書」の中で
「老師の一生は法に活き、法のために活躍せられ
私ども凡夫を救うに法を以ってせられ
老師の一生を通じての功業は実に法に終始せらるるものと謂うべし。
・・・非違なきに非違ありとせんとするが如き輩あるが為に
老師の晩年を傷つくる如きは、仏も菩薩も許したまはざる処にして・・・」
と述べられています。

このご門徒のお心にふれる時
処分を下したこと自体が、宗派が犯した大きな過ちであります。
このことによって、師はもとよりご家族と明泉寺同行の皆さまに
苦痛と悲しみをもたらしました。
さらに今日まで放置し続けてこたことを思いますと
慚愧に堪えず、心より謝罪いたします。

爾年70年、遅きに失したことでありますが
ここに宗派として竹中彰元師に対する当時の処分を取り消します。
そして師の復権への取り組みを通して
師のように仏法を持って社会に生きられた方々の志願を受け止め続けてまいります。

2011年の宗祖親鸞聖人750回御遠忌をお待ち受けする中で
改めて現代社会における宗門存立の意義を問い
人類に捧げる僧伽たらんとして、真の回復という使命を願わざるをえません。

当時、社会に生きる人々に非戦を語りかけられた竹中彰元師の足跡を振り返り
師の念仏者としての歩みを顕彰し、その時代を検証することをとおして
今を生きる私たち一人ひとりの歩みを確かめる取り組みをすすめてまいります。

2007年10月19日
真宗大谷派 宗務総長 熊谷宗恵



「戦争は罪悪であると同時に人類に対する敵であるから止めたがよい。
北支の方も上海の方も今占領して居る部分だけで止めたがよい。
決して国家として戦争は得なものではない。非常に損ばかりである。
今度の予算を見たまえ非常に膨大なもので
20億4千万円と言ふものは此の出征軍人が多数応召して
銃後の産業に打撃を被り
其の上に徒に人馬を殺傷する意味に於いて殺人的な予算だ。
戦争は此の意味から言っても止めた方が国家として賢明であると考える」
(1937年9月15日)

「此の度の事変に就て他人は如何考へるか知らぬが、自分は侵略の様に考へる
徒に彼我の生命を奪ひ膨大な予算を費ひ人馬の命を奪うことは
大乗的立場から見ても宜しくない
戦争は罪悪だ、保定や天津を取ってどれだけの利益があるか
もう此処らで戦争は止めたがよかろう」
(1937年10月10日)

「言論は自由だから憲兵や特高課から来ようが何ともない
自分の言った事については少しも恐れはせぬ」
(1937年10月21日)

「何をいうか。わしは自分の得手勝手をいうとるんじゃない。
仏法を語ったのじゃ。間違ったことはいっていない」
(1937年10月26日)

1945年10月21日 77歳永眠





「文明論之概略」
1875年(明治8年) 福沢諭吉
「第九章 日本文明の由来」より

宗教は人心の内部で動くので、最も自由、最も独立して
少しも他の制御を受けず、少しも他の力に頼らず
この世に存ずるはずなのに、わが日本ではそうならなかった。
もともと我が国の宗教は、神仏両道と言う者もいるが
神道はいまだ宗教の体をなさず、たとえ昔その説があっても
すでに仏教の中に取り込まれて(神仏習合)
数百年来、本心から出る言葉を示すことが出来なかった。
あるいは近年になって少し神道の名を聞くが
政府の変革に際して、わずかに王室の余光によって微々たる運動をしようとするだけで
一時的で偶然のことだから、私の意見では、これを定まった宗教とは認められない。
とにかく、昔から日本で行なわれて文明の一部分として働いてきた宗教は
唯一仏教があるだけである。
それなのにこの仏教も、生まれた時から治者の党に入って
その力に頼らなかった者はいない。
古来、名僧高僧と呼ばれる者は、唐へ行って法を求め
あるいは自国にいて新教を開き、人を教化し寺を建てた者も多いといえども
たいがいみんな天子や将軍などのひいきを得て
その余光の助けを得て法を広めようとしただけである。
甚だしいものは政府から爵位をもらって栄誉とする者までいる。

僧侶や僧正や僧都の位に補される例は、最も古くは
延喜式に(平安時代に編纂された律令の施行細則)僧都以上は三位に準じるといい
後醍醐天皇の建武二年の宣旨(天皇の命を受命者が書き遺したもの)には
大僧正が二位大納言、僧正が二位中納言
権の僧正が三位三議に准じるとある(釈家官班記)。
この趣を見ると、当時の名僧高僧も、天朝の官位を身につけて
その位によって朝廷の多くの臣下と上下の席次を争い
席の内外をもって栄辱としたのである。

このために日本の宗教は、昔から今日に至るまで
宗教はあっても自立した宗政があったことを聞かない(宗教の自立的な統治権)。
その実証を得たいと望むと、今日でも国内の有名な寺へ行き
その由来記を見る必要がある。
聖武天皇の天平年間に、国ごとに国分寺と建てて
桓武天皇の延暦七年には、伝教太子が比叡山を開き
根本中堂を建てて王城の鬼門を鎮め、嵯峨天皇の弘仁7年には
弘法大師が高野山を開き、帝から印譜を賜り、大伽藍を建立した。
そのほか、南部の諸山、京都の諸寺、中世には鎌倉五山、近世には上野の東叡山
芝の増上寺などいずれも政府の力によらなかったものはない。
その他歴代の天子で自ら仏に帰依し、あるいは親王の僧になった者も甚だ多い。
白河天皇に八男がいて、六人は僧になったという。
これも宗教が権力を得た原因の一つである。

独り一向宗は自立に近いが、やはりこの弊を逃れなかった。
足利の末、大永元年、実如上人の時、天子即位の費用を差し出し
その褒美として、永世准門跡として法親王に准じる地位を賜ったことがある。
王室の衰微貧困を気の毒に思って
余ったお金を支給するのは僧侶の身分ではもっともなことであるが
実際そうではなく、西の三条入道(仏門で修行する人)の仲介によって
お金で官位を買ったものである。これは卑劣といわざるを得ない。

故に古来日本国中の大寺院と称するものは
天子皇后の勅願所でなければ将軍執権が建立したものである。
要するに、これは御用の寺と言わざるを得ない。
その寺の由来を聞くと、御朱印は何百石、住職の資格は何々と言って
それはあたかも歴代の士族が自分の家柄を語ることと異ならない。
少し聞いただけで不愉快な気持ちになる。
寺の門前には、下馬札(下馬すべきことを記した立て札)を立てて
門を出ると一党を召し連れて、人を払い、道を開けさせて
その威力は封権の大名よりも盛んなものがあった。
この威力の源を調べると、宗教の威力ではなく
政府の威力を借用したもので、結局俗権の中の一部分にすぎない。
仏教が盛んといえども、その教えはすべて政権の中に吸い取られて
十万世界を遍く照らすものは仏教の光明ではなく
政権の威光であるようなものだ。
寺院に自立した宗教がないことも怪しむに足りない。
その教えにすがる人に信教の本心がないこともまた驚くに値しない。

その一例を揚げると、古来日本では
宗教だけのために戦争になったことが極めてまれなことをみても
また信教者が怠けて弱いさまを窺いすることができる。
その教えで、信心帰依が表に現れたのは
無智無学の農家の男女や老人が涙を流すに過ぎない。
この有様を見ると、仏法はたんに文盲世界の一器械に過ぎず
最も愚かで、頑固な人々の人心を緩和する方便にすぎない。
そのほかには、何らの効用もなく、何らの勢力も持たない。

その勢力がないはなはだしい例は
徳川の時代に破壊の僧がいて、世俗で罪を犯したのでなく
宗旨上の戒律を破る者があると、政府が直ちに捕えて
市中にさらして流刑に処す例がある。
この様な例は、僧侶が政府の奴隷になっているともいえる。
最近になって、政府から全国の僧侶に肉食妻帯を許すという命令があった。
この令によれば、従来僧侶は肉を食べず、婦人を近づけなかったのは
その宗教の宗旨を守るためでなく
政府の許可がなかったために努力して自ら禁じていたことになろう。
これからすると、僧侶は単に政府の奴隷であるだけでなく
日本国中すでに宗教なしと言うこともできる。

宗教ですらそうなら、儒道学問では言うまでもない。
わが国に儒書が伝わったのはすでにずいぶん前のことである。
王朝時代に博士をおいて、天子自ら漢書を読み
嵯峨天皇のときに、大納言冬嗣が勧学院を建てて
一族の子弟を教え、宇多天皇の時には中納言行平は奨学院を設けるなど
漢字も次第に広がって、ことに和歌の教えは昔から盛んであったが
すべてこの時代の学問は、位にあった人の子弟に及ぶだけで
著述書といえども、すべて官の手でつくられたものである。
いうまでもなく印刷技術もいまだ発明されていなかったので
民間に教育を施す方便もなかった。

鎌倉に時に、大江広元、三善康信らが儒学者として登用されたが
これもまた政府に属したもので、人民の間に学者がいたことを聞かない。
承久三年北条泰時が宇治勢多へ攻め入った時
後鳥羽上皇から宣旨が来て、従事した兵隊五千人の中から
この宣旨が読める者を探した時に、武蔵の国の住人藤田三郎なる者がいた。
世間の人がいかに文字を知らないかがわかる。
これより足利の末期に至るまで、学問はすべて僧侶が行うものになり
字を学ぼうとする者は、必ず寺に頼る以外に方法がなかった。
後世、字を習う生徒を呼んで寺子と言うのもその因縁による。
ある人の説に、日本に版木による印刷本ができたのは
鎌倉の五山を始めとすると言う。果たして真実か。

徳川の初めに、その始祖・家康は、一番に藤原惺窩を召し
次いで林光春を用い、太平が持続するに伴って
大学者が輩出し近世に及んだ。
このように、学問の盛衰は世の治乱と歩をともにして
独立の地位を占めることもなく、数十百年
戦乱の間はすべて僧侶の手に任せたことは
学問の不自由(人に顔向けできないさま)と言わざるを得ない。
この一事を見ても、儒教は仏教に及ばないことがわかる。





「国体の本義」
文部省が、昭和12年5月31日に発行し
普く学校官衙等に頒ち、更に民間に発表したものである。

仏教は印度で起り、支那・朝鮮を経て、我が国に入ったものであるが
それは信仰であると同時に道徳であり、又学問である。
そして我が国に入ってはすっかりと我が国民精神に化せられて
我が国のものとしての存在の仕方で発展した。
古くは推古天皇の二年春二月に
天皇は皇太子及び大臣に三宝
即ち仏・法・僧を興隆すべき詔(みことのり)をお下しになり
その詔(みことのり)によって君の恩と親の恩とに報いるために寺塔が建立された。
君や親の恩を報いるために寺を立てるという仏教が
伝わって来た初の頃のこの精神は
やがてそのまま南部の仏教に於いて国家をしづめ護るところの精神となって現われ
天台宗や真言宗に至ってはこの旗じるしを揚げ
その後臨済宗の興禅護国論の如き
又は日蓮宗の立正安国論の如き主張となり
その外、新仏教開祖の僧たちも皆一様に王法を重んじた。
そしてこれと共に、仏教の教理上の発達にも大いに見るべきものがあった。
真言宗が宇宙の一切の物を大日如来が現れたものであるとし
あるがままの身でそのまま仏に成るということを説き
天台宗が草木国土も悉く皆仏たるの性を持ち
凡夫も悟れば仏となるといい、解脱を衆生に及ぼして
一切衆生皆よく煩悩の繋縛を解き生死の業苦を脱して
絶対安心の境地に達し得るものだと説くところに
天照大神を中心とする天神地祗への崇敬及び一に帰し小我を没却するという精神
一切のものを同様に視て
衆と共に和するという心に相応ずるもののあることが観られる。
南部仏教の中には、解脱に差別のあることを説いているのもあるのに
平安仏教以後は、特に自我を空しうすることに基づく
差別即平等、平等即差別・・・
差別とか平等とかを超絶した絶対帰一の仏教本来の趣意を明らかにして
一切が平等であることを説くに至ったのは
やはり差別が即ち平等であるという心を有する我が国の氏族的な家族的な精神
小我を没し全体に帰一するという精神によって取り入れられて
すっかり一に化せられたものであって
例えば親鸞が御同朋御同行・・・
御友達と御道連れよと信徒に呼び掛けているが如き類がそれである。
浄土宗や真宗は聖道門即ち自力苦行の教法に対する易行道の浄土門
即ち本願の教法をとり
還相回向といって浄土から穢土に還って一切衆生を教化し
仏教に向かわしめることを説き
時宗は他人を済度教化するための行脚をして
仏教を国民大衆の仏教にした。
親鸞が阿弥陀仏の力即ち絶対の他力で浄土に攝取され
一切業苦から救われることを説き
自然法爾・・・
只々阿弥陀如来の御誓いにすがって極楽往生を遂げることを求めたところには
自我を没却して一に帰するという精神が最もよく活かされていると共に
法然が時と処とゆかりとを嫌はずいつ如何なる場合にも念仏をして
ありの儘の姿で極楽往生の業を成就することを説いたところには
日本人の活動的な実際的な
文句なしに実際に働くという人生の観方考え方が現れている。
又道元が、自己を空しうし小さい自我を忘れ切った自己の行が
やがて道そものもであるとし
生を治め産業を営むことが皆これ恩に報いるのであるとするその自我を没却した精神
実際的な立場を取る点に於いてやはり同様のものを持っている。
この精神は、段々と神儒仏が一致する等の説ともなって現われるに至った。
天台宗以下が、釈迦から歴史的に相伝え相承けて来たものを拠り所とし
聖徳太子に復帰しようとする運動を生じたところには
歴史や伝統を尊重する精神が現れている。
かようにして我が国は大乗仏教の発達にふさわしい地とせられて
仏教が今日の如きものになったのであって
そこに如何にも国民のものとしての存在の仕方、性格が自然と現れている。

このように我が国に同化された仏教が
我が国の文化を豊かにし、ものの見方に深みをつけ
ものの考えを訓練し、よく国民生活に染み込み
又国民精神を奮い励ましているのであって
その結果彼岸会とか盂蘭盆とかいうような
祖先崇拝に関係した行事をも生ずるに至った。





「アンチクリスト」
ニーチェ

仏教は、キリスト教にくらべ百倍も現実主義的だ。
仏教は、問題を客観的に、冷静に提出する昔からからの遺産を身につけている。
仏教は、いく百年とつづいた哲学的運動の後に出現しているのだ。
「神」という概念は、出現当時すでに、始末がついている。
仏教は、歴史がわれわれにしめしてくれる唯一の、真に実証主義的な宗教だ。
その認識論(一個の厳格な現象主義)においてさえそういえるのである。
仏教は、もはや、「罪にたいする戦い」などを口にしない。
そのかわり、どこまでも現実というものをみとめた上で、「苦悩にたいする戦い」を言う。
仏教は、(この点でキリスト教からふかく区別されるのだが)
道徳概念の自己欺瞞をとうに脱却している。
(それは、私流の言葉でいえば、善悪の彼岸に立っている)
仏教の根底にあり、仏教がはっきり眼をすえている二つの生理学的事実は
第一に、感受性の過度の敏感ということ
それは精巧をきわめた苦悩の感受能力としてあらわれる。
第二に、過度の精神化、すなわち概念や論理的操作のなかで
あまりに長期間くらしすぎたこと
このような生き方のもとでは、個人本能はそこなわれて
「非個人的なもの」に有利になるであろう。
(以上二つの生理学的事情は、私の読者のすくなくとも二、三人
「客観的」なひとびとなら、私同様、経験の上で知っていることだろう。)
以上のべた生理学的条件にもとづいて
あるひとつの沈鬱な心的状態が発生したのであった。

仏陀はこれにたいし衛生学的な手段をこうじる。
彼は対策として、野外生活、遍歴生活を採用する。
飲食における節制と選択、いっさいの酒類にたいする用心
癇癪をおこさせ血をたぎらせるようないっさいの情念に対する警戒
自分にたいしても、他人にたいしても、どちらにも気をつかわないこと。
仏陀は、こころを平静にする、あるいは晴れやかにする想念だけを要求する。
彼は、これ以外の想念に淫することからのがれる方法を編み出す。
彼は、善良さを、善良であることを、健康増進によいものと判断する。
祈祷は無用とされている。禁欲も同様に無用である。
いかなる定言命法もない。そもそも強制というものがない。
僧団のなかにさえない。(還俗がゆるされているのである)
総じて強制でおこなわれることは
あの過度の敏感性を激化する手段になりかねないであろう。
まさしく、このゆえであろう、仏陀は見解を異にするものへの戦闘さえ
ひとびとに要求してはいない。
復讐や、嫌悪や、怨恨といった感情におちいることを
仏陀の教えはなにものにもまして警戒しているのだ。
(「敵意によりては敵意は終息せず」
これが仏教全体に共通する感動的な復唱句である)
もっともなことである。
こうした情念こそ、摂生上の主目的からみて
このうえなく不健康なものだといえようから。
仏陀は、精神的な倦怠をまのあたりに見たのである。
あの過度の「客観性」
(すなわち個人的関心の薄弱化、重心の喪失、「エゴイズム」の喪失)
こういったものにあらわれる精神的な倦怠に打ち克つために
仏陀は、たとえ極度に精神的な関心事であろうと
さかのぼって、これを個人というものに還元してかんがえる。
仏陀の教えにおいて、エゴイズムは義務となる。
「人生の第一義」「いかにして汝は苦悩を免れるか」
これが精神上の摂生全体を規制し、制限するのである。
(おそらくここで、あのアテナイ人ソクラテスを思い出してもさしつかえあるまい。
彼もまた仏陀と同様に、純粋なる「科学性」に挑戦して
個人的エゴイズムを諸問題の領域においてモラルにまで高めた人なのである)

仏教の前提をなすものは
きわめて温暖な風土と、風俗習慣にみられる大いなる柔和さ
のびやかさといったものであって、けっしてミリタリズムではない。
運動の中心地が比較的上流社会の、知識階級のなかにあることも
仏教の前提の一つといえよう。
最高の目標としてめざされていることは
心の晴れやかさ、静けさ、無欲恬淡たることで
しかも、こうした目標は、じっさいに達成されるのである。
仏教は、たんに完全性をめざして気張っているような宗教ではない。
完全さが、常態なのだ。

仏教は老成した人間のための宗教である。
親切な・柔和な・精神的になりすぎた種族のための宗教であり
苦痛にたいしあまりにもかんじやすい種族のための宗教である。
(ヨーロッパは仏教を受け入れるまでにはまだまだ成熟していない)
仏教は、老成したひとびとにふたたび平和と快活とをあたえ
精神面の摂生、肉体面のある程度の鍛錬をあらためて課そうとする。
キリスト教の方は、猛獣を支配しようとする。
その手段は、猛獣どもを病気にすることである。
弱くすること、これが調教のための「文明開化」のための、キリスト教的処分だ。
仏教の方は、文明の終末にたいする
文明の倦怠にたいする宗教であるが
キリスト教が目の前にしているのは、いまだ文明ですらない。
場合によっては、キリスト教によって
ようやく文明がはじまるといった程度かもしれない。
仏教は、再度言っておくが、百倍も冷静で、誠実で、客観的である。
仏教は、罪をいろいろと解釈して、自分の苦悩や、苦痛の感受能力を
体裁よくととのえる必要などもはやたない。
仏教は、思うところをただりのまま口にする、「私は悩む」と。
これに反し、野蛮人には、苦悩そのものが体裁のよいものとはけっしていえない。
野蛮人は、自分が悩んでいるというただそれだけの事実をみとめるにも
まず、一個の解釈を必要とする。
(野蛮人の本能は、むしろ苦悩の存在をみとめないこと
人目にかくれて忍耐すること、その方がよいとおしえている)
折しもこうした場面において、「悪魔」という言葉は
一個の恩恵であったというべきだろう。
この言葉によって、すこぶる強力な敵、恐るべき敵ができたのだ。
こんな敵が出来た以上は
苦悩することを恥とする必要はなくなった。

二つの宗教、キリスト教と仏教というデカダンス宗教の根本的差異は
あくまでも次の点にあるからである。
すなわち仏教は約束しないで、果たす。
キリスト教はなんでも約束して、なにも果たさないということである。





「正法眼蔵」
道 元

諸仏のことばが実現すること、これが仏の教えである。
これは、仏祖が仏祖のために説くのであるから
教えが教えのために正しく伝わるのである。
これが法輪を転ずるということである。
この法輪の眼の玉のなかで、はじめて諸仏祖は実現し
また完全な涅槃に至らしめるのである。

諸仏祖が出現して涅槃にいたる場合
一塵のようなかすかなところに出現して涅槃に至ることもあり
全世界に行きわたって出現して涅槃に至ることもある。
また、一刹那の出現もあり、長い時間の出現もある。
しかしながら、一塵・一刹那の出現でも
その功徳が不足であるということは、さらさらない。
あるいは反対に、全世界や長い時間の出現といっても
一塵・一刹那の出現を補うということは、まったくない。
それゆえに、たとえば、朝に仏道を成就して
その夕にははや涅槃に入る諸仏でも
その功徳が足りないということはない。
一日では功徳が少ないといっても
釈迦牟尼仏のような八十年の生涯が長いというわけでもない。
人間の八十年を、十劫や二十劫のような途方もない長い時間に比べるとき
一日と八十年の比較と同じことになろう。
こういう次第だから、「此の仏」や「彼の仏」の功徳といっても
その多少を弁別することはむずかしいわけだ。
無限の長い寿命を持った仏の功徳と
釈迦牟尼仏のような八十年の功徳とを比べるとき
いずれが多少かを疑うにも及ばないであろう。
それゆえに、仏の教えというのは、すなわち教える仏である。
仏と教えとは一つなのである。
それこそ、仏祖が極め尽くしてきた功徳である。
諸仏は高く広いが、その教えは狭く小さいというのではない。

よくよく知るがよい。
仏が大であれば教えも大である。
仏が小であれば教えも小である。
仏と教えとは、大小の量によって決まるものではない。
あるいは、善・悪の性質でいうべきことでもない。
また、自らを教え、他にも教えるためのものでもない。

よく知るがよい。
仏心というのは、仏の眼の玉であり
解脱であり、ありとあらゆる法であり
三界であるから、したがって山海国土や日月星辰でもある。
仏の教えというのは、森羅万象である。

正伝とは、自己より自己へ正伝するのであるから
正伝のなかに自己があるのである。
一心より一心へ正伝するのである。
したがって、正伝のなかに一心があるのである。
上乗の一心は土石や砂礫である。
土石や砂礫は一心であるから、土石や砂礫は土石や砂礫である。
上乗一心の正伝というのは
かくのごときものでなければならない。

よく知るがよい。
一句を正伝すれば、一法が正伝されるのである。
一句を正伝すれば、山も伝わり、水も伝わるのである。

有といい、無といい、色というのも
ただ仏祖だけが、それを明らかにし
正伝してきて、古仏となり、今仏となっているのである。

よく知るがよい。
「我」も「此」も、ともに如来である。
そこに如来の面目や如来の身心が現れ来たっている。

ありとあらゆるものの生は、ここから生まれるのである。
いいかえれば、そのことがすなわち、この経を説くことである。
また、ありとあらゆるものの死は
ここより死ぬことであり、それがそのままこの経を説くことである。
さらにまた、日常つかのまの動作が、すなわち経を説くことである。
あるいはまた、ありとあらゆるものを教化して
ことごとく仏道に入らしめることが
そのままこの経を説くことである。

仏が法を説くばかりでなく、法もまた仏を説く。
法は仏に説かれるとともに、仏もまた法に説かれる。

説くことは天にも届くのである。
また、天にも届くことが、説かれるのである。
この仏もかの仏も、ともに「この経」こそと称し
この世界もかの世界も、ともに「この経」こそと説くのである。
それゆえに、「この経」を説くのであり
「この経」こそ仏の教えである。

よく知るがよい。
無数の仏の教えは、竹箆であり、払子である。
また、仏の教えの無数なるものは
柱杖であり、拳頭である。






< 伝承 仏教神話 U >
< 伝承 仏教神話 V >
< 伝承 仏教神話 W >
< 伝承 仏教神話 X >
< 伝承 仏教神話 Z >
< 伝承 仏教神話 Y >
< 伝承 仏教神話 [ >
< 伝承 仏教神話 \ >
< 伝承 仏教神話 ] >
< 伝承 仏教神話 ]U >
< 伝承 仏教神話 ]V >
< 伝承 仏教神話 ]W >
< 伝承 仏教神話 ]X >
< 伝承 仏教神話 ]Y >
< 伝承 仏教神話 ]Z >
メール




戻る
戻る