<説経節 若松若太夫>

初代若松若太夫 二代目 三代目


2010年11月6日(土)「第13回 若松若太夫独演会」

2010年11月13日(土)
「第9回 ふるさと歴史館伝統芸能公演”説経節"」

2010年6月5日(土) 「第12回 若松若太夫独演会」


毎年、「重松流祭囃子」所沢市本町の山車に乗って
いっしょに笛を吹き、太鼓を叩いている「小峰孝男氏」は


三代目 若松若太夫

である。


初代 若松若太夫「葛の葉」視聴できます
(CD-R「説経節 初代 若松若太夫」)


説経節

ドキュメンタリー映画 「三代目 若松若太夫」

竹間沢車人形

説経節CDの記事

第五回 ふるさと歴史館伝統芸能公演

第六回 ふるさと歴史館伝統芸能公演

第七回 ふるさと歴史館伝統芸能公演

<若松若太夫独演会>


(蘇れ!伝承音楽 山口 巌)


初代生誕130年記念
「説経節 初代 若松若太夫」CD-R制作






初代若松若太夫展
ー説経節弾き語り名人の軌跡ー

2006年4月25日(火)〜6月25日(日)
”東村山ふるさと歴史館”
(042−396−3800)
「大正期から昭和初期にかけて説経節を再興し
舞台、ラジオ、レコードなどで
活躍した初代若松若太夫。
その芸の軌跡を様々な活動を
遺品や写真などの資料をとおして
たどってみたいと思います。





<初代生誕130年記念説経節公演>
2004年2月14日(土)
飯能市 スタジオ蔵
<後 援> 埼玉県教育委員会・飯能市教育委員会



説経浄瑠璃
若 松 会
三代目 若松若太夫



説経節の説明を聞きます。




石童丸

今からおよそ八百年前
九州博多の城主加藤左衛門重氏は
世の無常を悟り、京の黒谷に登って法然上人の弟子となり
修行されること十三年間。
ある夜、延命地蔵のお告げを受け、高野山へと入られたのであります。
国に残されし千里御前は男児を出産
名を父君の幼名「石童丸」と命名。
石童丸十三年の春頃、父恋しさをつのらせ
同じ思いの母君ともども父を尋ね、
旅支度もそこそこに、風の便りに京の黒谷へ
そして高野へと長い旅に出かけたのであります。
当時、高野の山は女人禁制、石童丸は麓に母を残し
一人父を尋ねて高野山に登り、さまようこと三日二夜
無明の橋にて花桶を堤げた僧に出逢いました。
この僧こそ父・刈萱上人であるが
今は仏に俸げし身故、父であることを名乗ることもできず
石童丸に
「尋ねし父は既にこの世に亡き人である」と諭され
石童丸は胸せまる思いで山を下ったのであります。
麓に残せし母上は旅の疲れから病の床に臥され
遷らぬ人となっておりました。
泣く泣く国に残りし姉を頼りにと帰ってみれば
姉もまた十六歳を期に往生されておりました。
石童丸は再び高野山に登り
父上と悟りながらも師僧と仰ぎ弟子となり
ともども修業されること三十四年間。
善光寺如来の導くまま
刈萱上人はこの地に下り一寺を建立。
一刀三礼の地蔵尊を刻み、十四年間常念仏に励み
八十四歳にて大往生を遂げられたのであります。
石童丸は父の往生されたことを悟り
当寺に移り父の菩薩安かれと刈萱塚を建立。
ご自身も一刀三礼の地蔵尊を刻み
親子地蔵尊と称え、御厨子に安置し念仏に励まれ
六十八歳にて極楽浄土に赴かれたのであります。






弁慶勧進帳(安宅の関)



<説経節とは>

「寺のお坊さんが仏の教えを民衆に教えるとき、抽象的な仏教哲学を語っても
普通の善男善女の耳には入りにくい。
身近な例え話などにことよせて語るほうが効果的だ。
いい声で名調子でしゃべれば一層よく聞いてくれる。
そうしたしゃべりのテクニックがだんだん
磨き上げられ、単なる宗教の解説から一種の語りへと発展した。
12世紀(平安時代末期から鎌倉時代初頭)に澄憲のような名手が出て以後
特に真宗の寺院で芸能化したセッキョウが盛んに行なわれ
その流れは明治時代まで引き継がれた。
寺院内で僧侶によって行なわれる、節の付いたセッキョウを
いま一般に節談(ふしだん)説経とよんでいる。
・・・
若太夫のセッキョウは説談説経とはまったく別のものである。
大本のルーツは同じだろうが
澄憲の時代にはすでにほぼ関係なくなっていたと思われる。
寺院ではなく、街頭で発達したからである。
平安末期の乱世に、民間のニセ坊主が
各地を放浪しながら底辺民衆を相手に説経まがいの芸能をやった。
それは当然、説談説経よりさらに音楽化、芸能化したもので
ときに歌説経もしくは、説経節と呼び、竹に刻み目を付けたササラというものを
コスッてリズムを取りながら語ったので、その芸能者はササラ乞食とも呼ばれた。
演ずる場は空き地や路上である。
彼らは宗教家の落ちぶれた姿というよりは、もともと差別されていた人々が
新たな芸能を開発したと見るべきだろう。
そのように激動期の社会の底辺で、もっとも苦しんでいる
下層の心を捕らえたことを強みとして
説経節は力を増し、江戸時代始めには独自の小屋、
つまり劇場を持ち、三味線を伴奏に人形芝居の形で興行するまでになった。
しかし、説経節の全盛は長くは続かなかった。
高度に洗練された義太夫に代表される浄瑠璃の諸流派が盛んになるにつれて
素朴な説経節は時代遅れとなり
一部の農村に伝統芸能として細々と命脈を保つだけになった。
だが、江戸時代も終わろうとする変動の時期が来ると
民衆は祭文、チョンガレなど粗野ながら
インパクトの強いストリートの芸に惹かれるようになる。
そんな風潮のなかで説経節はよみがえった。
復活の先頭に立ったのが
先代・若松若太夫だったのである。
もちろん若太夫は中世や江戸初期の説経節を
そのまま復活させたのではない。
関東地方の農村部に伝わった伝統芸能の説経に
さまざまな語り物芸能の要素を加えて
独自に新時代の説経節を作り出し
改良説経節などと称した。」
(中村とうよう)


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